美意識のルーツ

1812月 - による yuichiro ikeda - 0 - コンフィデンシャル

こんなエントリーは自分の無知をさらけ出すからお恥ずかしいけれども記録に残しておこうと思う
毎週日曜日の23時から30分TBSで放送されている「情熱大陸」という番組がありますけど、今日は東信(あずま まこと)というフラワーアーティストが放送されていました。
番組中、彼はフランス・パリにある「colette」というファッションの発信店として有名なセレクトショップの12月12日から24日までのクリスマスウィンドウディスプレーを任され、それを制作するところが取り上げられていました。
彼が目の肥えたフランスパリのファッション街に出した答えは、たった一本のもみの木。
2メートルもあるもみの木を12本の金属棒だけでできた立方体の構造物の中に、数10本(50,60本くらい)のワイヤーでつるしたものでした。パリでもっとも華やかな街の中で、色も一色で非常にシンプルなディスプレーを完成させました。番組中ではできあがったディスプレーをみた通りがかりの人は、「無重力のようですばらしい」「コレットらしく奇抜だ」「おもしろい」という反応をしていました。
(作品としては違いますが、この写真がそれに近いものです。)
しかし、確かに変わっていると思ったもののそれが僕の中の美意識に働きかけるところがいまいちなく、変わっていると思う以外に反応のしようがなかったので、逆に「パリ(フランス)人はどんな美意識を持っているのか」という疑問がわいてしまいました。
その疑問を知り合いに投げかけたところ、こんな返事が返ってきました。
芸術というのは型にはめるものではないということだから。
フランス人は別に彼を認めているわけではない
と。
話を砕くと、僕たち日本人は小学校や中学、高校と例えば美術の授業でも社会の授業でも、あらゆることを型にはめてまとめて覚えると言う教育をされてきました。美術でいえば「印象派画家」や「写実主義」など、この時代の画家はこんな流派の流れを汲んでいてそれらを総称してこう呼ぶと教えられ、それに当てはまらない人を当時では珍しいとか異端だったとかそうやってその人もカテゴライズされていたのです。
しかし、歴史の中での流派等と言うものはあくまでもその時期について後世の研究家が研究して後から名前をつけたに過ぎず、当時としてはその流れや流派と言うのは何の意味も持たないわけです。
そういった考え方を教育された僕は、自分が生きる現在をも「カテゴライズ」しようとしてしまい、その枠に当てはめられないから、何か自分が知らない観念があるのではないかと思ってしまったわけです。
しかしそういった考え方をしないフランス人は目の前に現れた新しいデザインと言うものをいままでの自分の経験を基にカテゴライズせずに、今までにない新しい表現の仕方をしようとしているという芸術家である彼を「肯定した」にすぎないのです。いいかどうかではなく、そういう考えも一つだと認識したと言うか。
だから、僕の質問は美意識のルーツがあるわけではなく、哲学的に芸術と言うものをもっと大きな広い範囲で捕らえていると言うことになるのだと思います。
学生時代哲学だけはどうも手につかずに不勉強だったことを今勉強させられています。

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